量子コンピューターで分子を計算するとき、測定を増やすだけで精度が上がるとは限りません。どの電子状態を出発点にして、測定結果からどの配置を残すか。その選び方も、最後の答えに影響します。
IBM、理化学研究所、NVIDIAの研究者らが2026年11月3日に公開したプレプリントは、サンプルベース量子対角化(SQD)の出発点を見直した研究です。鉄と硫黄を含む分子モデルで、電子のスピンの偏りを許す参照状態を使い、量子測定と古典計算を組み合わせて基底状態のエネルギーを求めました。注目したいのは、計算した値と、そこから外挿した値の違いです。[1]
簡単にまとめると?
- SQDは量子回路で電子配置の候補を測定し、候補を絞った空間で古典計算を行う方法です。
- スピン対称性を破ったBS-UHF参照状態を使い、鉄硫黄クラスターの計算を改善しました。ただし、出発点だけでなく、残す配置数や回復計算の回数も結果に関わります。
- 直接計算したSQDと有限精度のDMRGとの差は約4.3 mHa。別々に外挿した推定値の差0.33 mHaとは、比較の段階が異なります。
量子測定は、計算する電子配置の候補を集める
分子中の電子には、多くの軌道への入り方があります。軌道とは、電子が取りうる空間的な状態を表すものです。その組合せをすべて扱うと、必要な計算量が急速に大きくなります。
SQDでは、まず量子回路を実行し、測定されたビット列から電子配置の候補を得ます。雑音の影響で電子数などの条件を満たさない結果は、配置回復(configuration recovery)という処理で修正します。そのうえで候補の一部を選び、そこに限定したハミルトニアンを古典コンピューターで対角化します。これは、選んだ配置を組み合わせて、どこまで低いエネルギーの状態を表せるかを解く工程です。[1]
たとえば、よく現れる配置を残そうとしても、最初の回路が重要な配置をほとんど生まなければ、後段で選べる候補は偏ります。逆に、候補があっても計算に残せる数が少なければ捨てられます。量子側の状態の作り方と、古典側の選別・計算の規模は、つながった問題です。

同じスピンの扱いに縛られない出発点
今回の対象は、鉄と硫黄を含むクラスターです。主な計算では、54電子・36空間軌道を選んだモデルを扱います。このような系では電子どうしの相関が強く、一つの単純な電子配置だけで状態を十分に表せません。[1]
従来の出発点で使われる制限Hartree–Fock法(RHF)は、上向きと下向きのスピンの電子に共通の空間軌道を使います。今回用いたBS-UHF(スピン対称性を破った非制限Hartree–Fock法)では、その制限を緩めます。鉄の中心ごとに逆向きのスピンの偏りを与えた初期値から計算を始め、より低いエネルギーの参照状態を探しました。[1]
単に設定名をUHFへ変えればよいわけではありません。初期値に偏りがなければ、計算がRHFと同じ対称な解へ戻る場合があります。研究では、原子の位置と磁気的な結び付きを踏まえた初期値や、得られた解の安定性の確認を組み込みました。参照状態は、量子回路の初期状態やパラメーター、測定結果を回復する際の初期の占有情報に影響します。[1]
一方で、この参照状態は全スピンの値が一つに定まる状態ではありません。異なる全スピンの成分が混ざる「スピン汚染」があり、エネルギーが下がっただけでそれが解消したとは言えません。今回の結果を、スピンの違いが重要なスペクトルや状態間のエネルギー差へ、そのまま適用することはできません。[1]
4.3 mHaと0.33 mHaは、別の比較
主な実験ではIBMの量子プロセッサーibm_kingstonを用い、72個のデータ用量子ビットに、接続を補う補助・経路用の量子ビットを加え、計88個を回路に使いました。72個は電子の軌道占有を表すデータの数で、誤り訂正された72論理量子ビットを実証したという意味ではありません。測定したサンプルを再利用し、古典側で配置回復を繰り返しています。[1]
比較相手の密度行列繰り込み群(DMRG)も、計算資源に応じて近似の精度が変わる古典計算法です。SQDが残す部分空間の次元dと、DMRGの表現力を調整するボンド次元Dは異なる量です。次の数値は、同じ桁の資源を使った比較という意味ではありません。
| 比較する段階 | SQDとDMRGの差 | 読み方 |
|---|---|---|
| 直接計算したSQDと有限DのDMRG | 約4.3 mHa | SQDはd=3×10¹⁰、DMRGはD=4000。実際に計算した二つの値の差 |
| 直接計算したSQDと外挿したDMRG | 約9.7 mHa | DMRG側の有限資源による誤差を外挿で見積もると、比較基準も下がる |
| 両手法をそれぞれ外挿した推定値 | 約0.33 mHa | SQDの誤差幅±1.05 mHa、DMRGの±0.46 mHaの範囲内で整合 |
資料[1]の表IV・図7・結論から整理。mHaはエネルギー単位Hartreeの1000分の1です。直接計算したSQDの値は−327.235076 Ha、D=4000のDMRGは−327.2393952 Ha。これらの差は4.3192 mHaとなります。
外挿は、限られた計算結果に式を当てはめ、さらに大きな資源を使った先の値を推定する手続きです。今回のSQDの最大計算空間は、対象モデルの全配置空間の約0.00034%にとどまります。報告された誤差幅は当てはめに伴う統計的な見積もりで、外挿式の選び方などの系統的な誤差をすべて保証するものではありません。0.33 mHaを、その精度で直接計算できたという数字に置き換えないことが大切です。
出発点と、計算全体の条件を一緒に見る
研究では、富岳、Miyabi-G、ROQUOで古典側の処理を動かし、チェックポイントから計算を再開できることも調べています。三つのシステムを同時に束ねて一つの答えを計算したのではなく、それぞれの実行環境で動かした結果です。[1]
量子プロセッサーの利用時間として示される約25分は、古典側の長い回復・対角化を含む総所要時間ではありません。また、論文に示されたROQUOの時間測定は2026年7〜8月の構成に基づきます。異なるソフトウェアや資源配置で得た時間を、現在のハードウェア単体の性能順位に読み替えることも避ける必要があります。[1]
従来のRHFを出発点にした研究との大きなエネルギー差についても、部分空間の大きさ、反復の深さ、サンプル、量子ハードウェアが異なります。論文の結論が留保する通り、差のすべてを参照状態だけの効果とするには、条件をそろえた比較が必要です。
今回の研究が示すのは、量子ビット数や測定回数に加え、化学的に適切な出発点と、そこから候補を残す仕組みを見直す余地です。次の成果を読むときも、直接計算か外挿か、比較基準は有限精度か、古典計算を含む費用はどうかを分けると、改善の意味を捉えやすくなります。プレプリント段階の結果であり、量子計算の速度優位や実用的な反応エネルギーの精度まで実証したものではありません。
研究を支える企業の位置付けは、CyclewaveのIBMの事業と量子計算への取り組み、NVIDIAのGPU・ソフトウェア基盤で解説しています。
出典
- Kunal Kumarほか「Broken-Symmetry Reference States for Sample-Based Quantum Diagonalization with Near-DMRG Accuracy」、arXiv:2611.04496v1、2026年11月3日投稿。論文と書誌情報。
