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  • もつれた相手がいる量子操作には、なぜ完全正値性が要るのか

    もつれた相手がいる量子操作には、なぜ完全正値性が要るのか

    ある量子ビットに加える操作が、単独の状態をどれも正しい状態へ変える。それなら、量子計算の途中でも安心して使えるでしょうか。実は、別の量子ビットともつれている場合まで含めると、それだけでは足りません。操作しない相手を含む全体も、有効な量子状態へ移す、という条件が必要になります。

    この条件が完全正値性です。行と列を入れ替える「転置」を例に、単独での正しさと、組み合わせたときの正しさの違いを見ていきます。

    簡単にまとめると?

    • 正値性は、正半定値の入力を正半定値の出力へ移し、負の測定確率を出さない条件です。完全正値性は、触らない相手を含む全体にもこの条件を求めます。
    • 転置は正値でトレースも保ちますが、ベル状態の片側だけへ適用すると負の固有値が現れ、物理的な状態になりません。
    • 量子チャネルの判定では、完全正値性とトレース保存を分けて確認します。Choi行列を使うときは、正規化と部分系の順序もそろえます。

    「正しい状態」を、測定確率から考える

    量子状態は、密度行列という行列で表せます。これは純粋な状態だけでなく、複数の状態が確率的に混ざる場合も扱える表現です。密度行列には、エルミートであること、トレースが1であること、正半定値であること、という条件があります。正半定値とは、すべての固有値が0以上であることです。

    最後の条件には、測定確率を負にしないという意味があります。ある状態ベクトル |v〉 に対応する結果の確率は、密度行列をρとして 〈v|ρ|v〉 で計算できます。もしρに負の固有値があれば、その固有ベクトルを測定の一つの結果に選ぶと、確率が負になります。確率が「−50%」という状態を、測定装置が出力することはできません。

    そこで、正半定値の行列を正半定値の行列へ移す変換を「正値写像」と呼びます。ここでは有限次元で、行列に線形に作用する変換を考えます。また、必ず何らかの出力を返す量子チャネルを扱うため、確率の合計を保つトレース保存も必要です。特定の測定結果だけを選び出す操作は、この後で区別します。

    転置は、単独の入力なら条件を満たす

    転置Tは、行列の行と列を入れ替える操作です。たとえば2行2列なら、右上と左下の成分が入れ替わります。元の行列と転置後の行列は同じ固有値を持ち、対角成分の合計であるトレースも変わりません。そのため密度行列を転置しても、単独で見れば密度行列のままです。

    これは、計算基底の0と1を入れ替える量子ゲートとは別の操作です。「行と列を入れ替える」と「量子ビットの値を反転する」を同じ意味で扱わないことが大切です。

    単独の入力をいくら調べても、この転置は正値性とトレース保存を満たします。問題は、その入力が外部の相手ともつれているときに現れます。

    ベル状態の片側だけを転置すると、何が起きるか

    量子ビットAとBを、ベル状態 |Φ+〉=(|00〉+|11〉)/√2 に準備したと考えます。Aはそのままにして、Bにだけ転置を適用する計算が「部分転置」です。Aを変えない操作をidと書くと、全体の変換は idA⊗TB です。

    基底を |00〉、|01〉、|10〉、|11〉 の順に並べると、計算結果は次の行列になります。全体を転置するのではなく、Bの行と列に相当する添字だけを入れ替えています。

            ⎡ 1  0  0  0 ⎤
    M = 1/2 ⎢ 0  0  1  0 ⎥
            ⎢ 0  1  0  0 ⎥
            ⎣ 0  0  0  1 ⎦

    この行列のトレースは1です。しかし、固有値は 1/2、1/2、1/2、−1/2 になります。負の固有値に対応するのは、|Ψ−〉=(|01〉−|10〉)/√2 です。中央の2行2列が二つの成分を交換するため、符号が逆のこのベクトルには−1/2が掛かります。

    したがって、Mを本当の状態だと仮定すると、〈Ψ−|M|Ψ−〉=−1/2 という測定確率が出てしまいます。これは実験で負の確率が観測されるという話ではありません。転置を、どんな入力にも使える局所的な量子チャネルと仮定したことが破綻する、という反例です。

    単独では正しい状態を保つ転置でも、ベル状態のB側だけに適用すると固有値マイナス2分の1が現れる。対照的にB側のZゲートは正しいベル状態を保つ比較図。
    図1 単独の正値性と、相手を含めた整合性の違い。理想的な行列計算から作成した説明図で、実機の動作図や測定結果ではありません。画像を開くと原寸で確認できます。

    完全正値性は、触らない相手まで含めた条件

    完全正値性では、操作Φだけでなく、任意の有限次元の補助系に何もしない操作idを組み合わせた Φ⊗id も正値であることを求めます。補助系は新しく付け足した測定器に限りません。計算の別のレジスターや、離れた場所にあるもつれの相手も、この考え方で扱えます。完全正値性は、もつれや相関そのものを保存する条件ではなく、出力全体が有効な状態となるための条件です。どちらを左側に書くかは、部分系の並べ方の約束です。[1]

    相手と独立した入力だけでは、この問題は見えません。たとえばρA⊗ρBのB側を転置すると、ρA⊗ρBTとなり、正しい状態にとどまります。積状態を確率的に混ぜた入力でも同様です。今回のベル状態は、そのような混合では表せないもつれを持つため、単独の検査で見逃す矛盾を明らかにできます。

    比較として、B側だけにZゲートを加えてみます。Zは |0〉 をそのままにし、|1〉 の符号を反転するゲートです。全体は (|00〉−|11〉)/√2 という別のベル状態になり、その密度行列の固有値は1、0、0、0です。操作しないAと組み合わせても、有効な状態のままです。転置の反例は、局所操作そのものや、もつれの存在を禁止しているのではありません。

    Choi行列では、正規化と保存条件を分けて読む

    任意の相手を含めると聞くと、無数の入力を試す必要がありそうです。有限次元の線形写像では、Choi(チョイ)行列という一つの行列の正半定値性から、完全正値性を判定できます。入力と同じ次元の参照系との最大もつれを使い、その片側へ写像を作用させたものに対応します。これは数理的な特徴付けであり、一度の実験から未知の装置が完全正値だと証明できる、という意味ではありません。[1]

    ここで注意したいのが、もつれたベクトルを正規化するかどうかです。入力次元をdとし、正規化しない |Ω〉=Σi|i〉|i〉 を使う規約では、Choi行列を J=(Φ⊗id)(|Ω〉〈Ω|) と定義します。出力系を部分トレースした結果が入力系の単位行列Iなら、写像はトレース保存です。そのときJ全体のトレースはdで、1ではありません。

    一方、|Ω〉/√d から作る行列はJ/dです。トレース保存の条件も、出力系を部分トレースした結果がI/dへ変わります。正の定数倍なので完全正値性の判定は変わりませんが、トレース保存を確認する右辺は変わります。2次元なら「Iと比較するか、I/2と比較するか」の差です。

    QuTiPの固定版実装では、iscp がChoi行列のエルミート性と、許容誤差を含む固有値を調べ、istp が部分トレースを単位行列と比べます。行列を手作業で渡すときは、数値だけでなく正規化・入力出力の順序・次元情報をその実装の規約に合わせる必要があります。ここで扱う転置自体はトレース保存です。正規化したベル状態由来の行列を、正規化しないChoi行列の条件へそのまま代入した結果で、その性質を判断してはいけません。[2][3]

    量子操作のモデルを比べるときに確かめたいこと

    ある変換を、入力を限定せず使える量子チャネルとして採用するなら、単独の状態を保つことに加え、完全正値性とトレース保存の両方を確認します。前者はもつれた相手を含む確率の整合性、後者は結果を選別しない操作で確率の合計を保つ条件です。

    測定の特定結果が出た場合だけを取り出す操作では、トレースがその結果の確率になり、1より小さくなることがあります。このような条件付きの枝を、トレースが減るからという理由だけで不正と決めることもできません。チャネル全体を検査しているのか、測定結果の一つを扱っているのかを先に区別します。

    今回の反例は、有限次元の理想的な行列によるものです。ノイズの推定精度や装置の性能を測ったものではなく、非CPの式があらゆる計算で無意味だと言っているわけでもありません。部分転置は、状態の性質を調べる数学的な手段として使えます。ただし、それを入力一般に実行できる装置の操作と同一視しないことが必要です。「単独で成り立つ」と「相手との関係を含めて成り立つ」を分けると、完全正値性が何を守っているのかが見えてきます。

    出典

    1. John Watrous, Theory of Quantum Information, Lecture 5(2011年9月27日更新)。§5.2.2、§5.3、定理5.3・5.4、系5.5。完全正値性、Choi行列、トレース保存の定義と条件。
    2. QuTiP 5.1 User Guide: Properties of Quantum Maps。量子写像と転置の例。保存した版の正規化されたベル状態の例と、固定実装のChoi規約を区別して参照。
    3. QuTiP 5.1.1 qobj.py。iscp、istp、iscptp。固定コミット 7accc77a70a08f965a29fdd13515f79cdcab9703 の実装を参照。