量子ビットの信号が長く残ったとき、それは量子情報を長く保てた証拠でしょうか。スピンを何度も反転させる実験では、制御パルスの小さな誤差が、ゆっくり消える別の信号を混ぜてしまうことがあります。信号の寿命だけを見ていると、量子状態の位相のそろい方、コヒーレンスを過大評価するおそれがあります。
Weibin Ni氏らは、パルスの位相を計画的に変えて測り、その結果を組み合わせる「アダマール位相サイクル(Hadamard phase cycling、HPC)」を提案しています。2025年11月15日の初稿から改訂され、2026年11月3日に公開された第3版では、分子中の電子スピンやダイヤモンドのNV中心などで、コヒーレンス時間の測定に混ざる制御誤差の影響を検証しています。[1]
簡単にまとめると?
- 反転パルスの誤差によって、コヒーレンスの信号に、よりゆっくり変化する状態占有の成分が混ざることがあります。
- HPCは、位相を変えた複数の測定を加減算し、不要な信号の経路を打ち消す方法です。完全に取り除く方法より少ない設定数で近似します。
- 長いT₂だけで性能を判断せず、同じパルス列・試料・解析条件での比較が必要です。測定後の誤差緩和と、量子状態そのものの誤り訂正は区別されます。
反転パルスで保護したいのは、位相の関係
環境の揺らぎによって量子ビットの位相がばらつくと、重ね合わせの関係が失われます。そこで途中に反転パルスを入れ、前半に生じた位相のずれが後半で打ち消されるようにするのが、動的デカップリングです。十分にゆっくりした揺らぎなら、こうした操作で影響を抑えられます。
その効果は、パルス列の後に戻ってくる「エコー」という信号から調べられます。待ち時間を延ばしたときにエコーがどの程度弱まるかを測り、位相の関係が保たれる時間T₂を評価します。一方、量子ビットの二つの状態がどの割合で占有されているかが平衡へ戻る時間はT₁です。T₂とT₁は、同じ量子ビットでも異なる過程を表します。
理想的な反転パルスは、コヒーレンスを適切に反転させます。しかし、角度などに誤差があると、コヒーレンスの一部が状態の占有に移り、後のパルスで再び測定信号へ戻ることがあります。T₁がT₂よりずっと長ければ、占有の成分として過ごした時間が、エコーを長持ちさせる方向に働きます。こうして残った信号を、全区間でコヒーレンスを保った信号と取り違えることが問題になります。
パルスの向きを変え、不要な経路を打ち消す
位相サイクルは、パルス列の位相を変えた複数の実験を行い、測定結果を足したり引いたりする手法です。核磁気共鳴などで使われてきた考え方を、長い動的デカップリングの列にも適用しやすくするのが今回の提案です。
鍵になるのは、パルスの位相をπ、つまり180度ずらしたときの信号の変化です。論文で扱う反転パルスでは、コヒーレンスと占有の間を誤って移る経路の寄与が符号を変える一方、残したいコヒーレンスの経路は同じ符号を保つ組み合わせを作れます。同じ大きさで逆符号になった不要な寄与は、加算すれば消えます。

パルスが増えると、途中で占有の成分を経由する組み合わせも急増します。論文の設定で、それらを完全に選り分ける完全位相サイクル(CPC)は、反転パルスがm個なら2m通りの設定を必要とします。16個なら65,536通りです。
HPCは、+と−を規則的に配置したアダマール行列を使い、打ち消し合う組み合わせを効率よく選びます。mが2の累乗である場合、必要な設定は4m通りとなり、16個なら64通りです。任意のmでは、それを収められる最小の2の累乗の行列を使うため、設定数は4mから8m−8の範囲になります。
この削減は、完全な選択を近似に置き換えた結果です。論文にある「98%以上」は、m > 16などの条件で除去される不要な経路の種類を数えた割合です。測定誤差や雑音の強度が98%以上減るという意味ではありません。各経路が信号へどれだけ寄与するかは、その振幅や途中の変化にも左右されます。また、設定数が少なくても各設定を繰り返し測る必要があり、実際の測定時間が同じ比率で短くなるとは限りません。
同じ試料でも、測り方でT₂の評価が変わる
研究では、8 Kに冷却した銅イオンを含む分子の電子スピンを使い、一定間隔で反転させるCPMG列を調べています。従来の二段階位相サイクル(TPC)は、最初のパルスの位相を変えた二つの測定を差し引く方法です。基線のずれを消せても、反転パルスに誤差があると、目的外の経路を十分に取り除けない場合があります。
同じCPMG列のパルス数を固定し、間隔を変えて減衰を測った結果が次の例です。値は、共通の単一指数関数でエコーの減衰を近似して得た見かけのT₂で、資料の表S5から示しています。[1]
| 反転パルス数 | 二段階位相サイクル TPC | アダマール位相サイクル HPC |
|---|---|---|
| 16 | 20.58 µs | 17.39 µs |
| 64 | 33.13 µs | 21.13 µs |
| 128 | 43.53 µs | 24.42 µs |
HPCを使うと、同じパルス数でも短い値になります。これは保護を弱めたというより、長いエコーに混ざっていた占有由来の寄与を抑え、調べたいコヒーレンスの減衰へ近づけたという解釈です。短い列の範囲ではHPCと完全位相サイクルの信号がよく一致することも、実験で確かめられています。
一方、この試料の単純なハーンエコーによるT₂は約6.54 µsで、HPCを使ったCPMG-128の約24.42 µsより短い値です。つまり、動的デカップリングによる保護の効果まで否定する結果ではありません。「どの過程を信号として残したうえで、どれだけ長くなったか」が重要です。
この比較では、減衰を同じ関数で評価することも条件の一部です。補足資料では、より自由度の高い関数を使うと、複数のパラメータの組が同程度によく合い、T₂を安定して決めにくい例があると説明されています。表の値を、試料やパルス条件に依存しない唯一の寿命として読むことはできません。
信号を整えることと、量子状態を修復すること
研究は分子スピンのほか、ダイヤモンドのNV中心や核スピンでも測定を行い、捕獲イオンと超伝導量子ビットでは状態の評価も行っています。ただし、後者で報告される「実効的な状態忠実度」は、複数回路の結果を位相に応じて加減算し、さらに正規化して作った状態に対する指標です。
この正規化は、制御誤差の影響を、不可逆な減衰と切り分けて評価するためのものです。高い実効忠実度を得たことだけから、各回の量子ビットがその忠実度で保存された、環境によるコヒーレンスの消失が元に戻った、とは言えません。HPCは測定結果を組み合わせる量子誤差緩和の方法であり、未知の量子状態を毎回修復する量子誤り訂正とは役割が異なります。
既にパルス誤差への耐性を持つXY-8やXY-16でも、位相をどの単位で変えるかが重要です。補足資料のシミュレーションでは、一つの列の内部の位相関係を保ち、ブロック全体を単位にして変更する方法を検討しています。個々のパルスを別々に変更すると、元の誤差補償を崩す場合があり、すべての列に同じ改善幅を期待することはできません。
性能を比べるときに見るべき条件
T₂を比較するときは、まず同じ試料・温度・パルス列・パルス数・減衰の近似方法で、TPCとHPCの結果がどれだけ違うかを見ると、占有由来の信号の影響を調べやすくなります。T₁がT₂より長い場合や、制御誤差が無視できない場合は特に意味があります。
測定中の履歴ではなく、最後に得られる状態や計算結果が目的なら、状態トモグラフィーやアルゴリズム全体の評価も必要です。長いエコー、コヒーレンスの保護、正しい計算出力は、それぞれ異なる問いに答えています。HPCは、そのうち測定に混ざる不要な信号を選り分け、比較の土台を確かにする手法として位置付けられます。
参考資料
[1]Weibin Ni ほか, “Scalable quantum error mitigation for dynamical decoupling via Hadamard phase cycling”, arXiv:2511.12227v3(初稿2025年11月15日、改訂2026年11月3日)。論文情報 / 原論文・補足資料PDF。本文3〜12頁、補足資料S1・S3〜S7・S13〜S14、表S5を参照。
