分子の性質を計算するとき、電子の振る舞いを詳しく扱おうとするほど、必要な計算量が増えていきます。量子コンピュータに期待が集まる理由の一つですが、大きな分子をそのまま載せられるだけの、十分に信頼できる量子ビットがすぐ使えるわけではありません。
米パシフィック・ノースウェスト国立研究所(PNNL)が2026年10月30日に紹介したQuantum Flow(QFlow)は、大きな電子状態の問題を、情報をやり取りする多数の小さな問題へ分ける方法です。今回の結果は、高性能計算機上の量子回路シミュレータを用いたものです。「12量子ビット相当」という小ささと、実際の量子装置で計算を終えたことを区別して読むと、この研究の狙いが見えてきます。
簡単にまとめると?
- QFlowは、電子の状態を表す大きな計算空間を、互いの影響を取り込む小さな「活性空間」へ分けます。
- プロパンの例では、164量子ビット相当の問題を、1回あたり12量子ビット相当の計算の繰り返しとして扱いました。
- 得られた約95%は、比較に使ったCCSD法の相関エネルギーに対する割合です。分子の性質すべてを95%の精度で予測した値でも、量子計算の高速化率でもありません。
分子を切るのではなく、電子を扱う空間を分ける
分子の中の電子は、それぞれ独立に動くわけではありません。他の電子の存在を受けて振る舞いが変わります。この相互依存を「電子相関」と呼び、分子のエネルギーや反応を詳しく計算するうえで重要になります。
計算では、電子の状態を表す軌道を用意し、その組み合わせを調べます。ここでいう軌道は電子の状態を表す数学的な表現で、電子が通る決まった道ではありません。扱う軌道を増やすと表現は豊かになりますが、電子の配置の組み合わせも増えます。
活性空間は、その中から詳しく解く電子と軌道を選んだ計算範囲です。QFlowは、分子を物理的に小片へ切り分ける方法ではありません。重なりを持つ活性空間を複数用意し、小さい問題を解きながら、全体の電子相関を近似していきます。
小さく分けても、外側の影響を捨てない
小さい範囲だけを取り出して、残りを無視してしまえば、元の分子とは別の問題になってしまいます。QFlowでは、各活性空間の外側の影響を「有効ハミルトニアン」に取り込みます。ハミルトニアンは系のエネルギーと相互作用を表すもので、ここでは大きな問題の情報を、小さい範囲で使える形へまとめ直す役割を持ちます。この縮約をダウンフォールディングと呼びます。
公開著者版に記された実装では、古典計算側のExaChemが有効ハミルトニアンを作り、NWQSimという量子回路シミュレータが小さな問題を解きます。そこで使う変分量子固有値ソルバー(VQE)は、試行する状態のパラメータを調整し、エネルギーが低くなる状態を探す手法です。
解いた結果のパラメータは共通の保存場所へ戻され、次の活性空間の計算へ反映されます。小さい問題を一度ずつ解いて終えるのではなく、全体を何周かしながら情報を更新する仕組みです。各問題を並列に処理できる部分と、周回の終わりにそろえる部分があり、量子ビット数を減らす代わりに多数の計算と情報管理が必要になります。
164量子ビット相当の問題を、12量子ビット相当ずつ
具体例はプロパンです。cc-pVDZという基底関数の組で電子状態を表した場合、対象は82個の空間軌道になり、そのままの表現では164量子ビット相当に対応します。QFlowでは、占有軌道3個と仮想軌道3個からなる活性空間、つまり6電子・6軌道の小問題を使いました。各空間軌道の二つのスピン状態を表すため、小問題は12量子ビット相当になります。
一周の計算に含まれる活性空間は56,860個。重複を除いた約117万個の波動関数パラメータを更新し、3周目には比較対象のCCSD法が与える相関エネルギーの約95%を回収しました。少ない量子ビットで一回だけ計算すれば済む、という結果ではありません。

この図では、最初の周回でエネルギーが大きく変わり、その後の周回で変化が小さくなっていく様子を確認できます。一方、CCSDの破線との隔たりは残っています。反復による値の収束と、参照手法との一致は、別の評価項目です。
「95%」の分母を確かめる
相関エネルギーは、電子同士の関係をより詳しく扱ったときに、基準となる平均場の計算からどれだけエネルギーが変わるかを表します。今回の約95%は、CCSDという、一電子・二電子の励起を扱う結合クラスター法の結果を参照した割合です。
CCSD自体も近似計算なので、この割合を厳密解に対する正解率へ読み替えることはできません。また、エネルギー全体の95%という意味でもありません。化学反応で重要になるエネルギー差まで十分な精度で得られるかは、目的の系と条件に合わせた検証が必要です。
小問題を大きくすれば、一度に扱える電子相関は増えますが、必要な量子ビットも増えます。外側の影響を取り込む近似を精密にすれば、古典計算側の仕事も増えます。QFlowの価値は、問題全体を一台へ載せる以外の選択肢を作り、この分担を調整できる点にあります。
次の判断材料は、実機の誤差と計算全体の費用
今回の高性能計算機上での実装は、分割して情報を戻す方法が働くことを確かめる段階です。実際の量子装置では、ゲートや測定の誤差、繰り返し測定の回数、古典計算とのデータの受け渡しも加わります。必要な量子ビット数だけで、全体の実行時間や費用が減ると判断することはできません。
掲載版の要旨では、強い電子相関を持つ領域で単純平均がうまく働かない場合に対応するため、重み付きの平均を導入したことも報告されています。ここで示したプロパンの数値と図は6月の公開著者版に基づくもので、この後の拡張と同一の検証範囲として扱うものではありません。
量子計算を化学へ使うための問いは、「何量子ビットあればよいか」から、分割の仕方、近似の精度、反復回数、実機での誤差をどう組み合わせるかへ広がっています。QFlowは、その組み合わせを具体的な分子で比べるための枠組みを示しています。
出典
- PNNL、Quantum Information Harvesting with a Parallel Quantum Flow Algorithm(2026年10月30日、研究紹介)。
- Baumanほか、Quantum Information Harvesting with the Parallel Quantum Flow Algorithm、公開著者版v1(2026年6月2日公開)。実装、プロパンの条件・数値、図4を参照。
- 同論文の掲載版、The Journal of Physical Chemistry Letters 17, 11320–11328。出版社表示では2026年9月23日オンライン公開、10月8日号。掲載版は書誌情報と要旨を参照。
