原子をある内部状態から別の内部状態へ移したいとき、途中に寿命の短い励起状態があると、そこから光が放出されて狙いとは違う状態へ移ることがあります。二つのレーザーを使うSTIRAPでは、原子をその励起状態に多く滞在させず、最初の状態から目的の状態へ移すことを目指します。
STIRAP(Stimulated Raman Adiabatic Passage、誘導ラマン断熱通過)の特徴は、二つの光の順番です。最初の状態を励起する光より先に、目的の状態と励起状態を結ぶ光を当てます。その後、二つの光を重ねながら強さを変え、原子がとる状態を連続的に変化させます。
簡単にまとめると?
- STIRAPは、二つのレーザーが作る「暗状態」を変えながら、原子の内部状態の占有を移す方法です。原子の場所を移動させるという意味ではありません。
- 目的の状態側を結ぶストークス光を先に、初期状態側を結ぶポンプ光を後から当てます。二つのパルスが重なる時間も必要です。
- 励起状態への移行を干渉で抑えますが、光の変化が速すぎる場合や二光子共鳴が外れた場合まで損失をなくすわけではありません。
まず、二つの光が結ぶ相手を分ける
ここでは、二つの長寿命な状態を1と3、その両方と光で結べる励起状態を2と呼びます。状態1と2を結ぶのがポンプ光、状態3と2を結ぶのがストークス光です。三つのエネルギー準位の配置がΛに似るため、Λ型の三準位系と呼ばれます。
単純に順番を考えるなら、ポンプ光で1から2へ移し、次にストークス光で2から3へ移したくなります。ところが状態2へ移した分は、自然放出によって別の状態へ漏れる可能性があります。STIRAPでは、この「いったん2へ移してから3へ移す」という進み方を避けます。
二つの光の周波数差が、状態1と3のエネルギー差に合う条件を二光子共鳴といいます。理想的なΛ型モデルでは、この条件の下で、状態2の成分を持たない重ね合わせが作れます。二つの経路から状態2へ向かう振幅が打ち消し合うためです。この重ね合わせが、STIRAPで使う暗状態です。
まだ原子がいない側の光を先に当てる理由
状態1に原子を準備し、まずストークス光を当てます。この光が直接結ぶのは2と3なので、最初に原子がいる1からは、直ちに励起されません。ポンプ光がほぼゼロの間、暗状態はほぼ状態1と一致します。
続いて、ストークス光が残っている間にポンプ光を強くします。二つの光が同時に働くと、暗状態には状態1と3の両方の成分が含まれます。さらにストークス光を弱め、ポンプ光を残すと、暗状態はほぼ状態3へ変わります。原子がその変化についていけば、最初は1にあった占有が3へ移ります。
この順序は、通常想像する励起の順番と逆なので、反直観的なパルス順序と呼ばれます。ただし「ストークス光を完全に消してからポンプ光を当てる」という意味ではありません。二つの光が重なる区間があり、その間に暗状態の中身を滑らかに変えることが肝心です。
二つのラビ周波数の比が、暗状態の中身を変える
光と原子の結び付きの強さを表すラビ周波数を、ポンプ光についてΩP、ストークス光についてΩSとします。同じ遷移ならラビ周波数は光の電場の振幅に比例し、光の強度そのものとは比例関係が異なります。また、1と2、3と2では遷移の性質も関わるため、ここで使うのは光の強度の比ではなく、二つのラビ周波数の比です。相対位相を一定にして両方を実数で表す理想モデルでは、暗状態は次の形になります。
|D⟩=cosθ |1⟩ − sinθ |3⟩、tanθ=ΩP/ΩS
最初はΩPがほぼゼロなのでθもほぼ0となり、暗状態はほぼ|1⟩です。途中で二つのラビ周波数が等しくなるとθ=π/4となり、1と3の占有確率はそれぞれ1/2になります。最後にΩSをほぼゼロにしてθをπ/2へ近づけると、暗状態はほぼ−|3⟩になります。最後のマイナスは全体の位相で、この状態だけの占有確率を変えません。
この1/2は、理想的な暗状態を式で分解した値です。どの装置でも途中の測定値が厳密に1/2になるという実験結果ではありません。また、状態2の成分がないという説明も理想的な断熱追随の範囲です。実際の有限時間の操作では、暗状態から少し外れて状態2へ占有が生じることがあります。

図の(a)では赤いストークス光Sが先に立ち上がり、青いポンプ光Pが後から重なります。その間に(c)の混合角が0からπ/2へ変わり、(d)では状態1の占有P1が減るのに対応して、状態3の占有P3が増えます。状態2の占有P2は、この条件では低く抑えられています。(b)は暗状態の固有周波数ε0とほかの二つの固有周波数との隔たりで、この隔たりが次の断熱条件に関わります。
「ゆっくり」は、何と比べて決まるのか
断熱とは、ここでは熱を出し入れしないという意味ではなく、変化する光の下で、ある固有状態を追い続けるという意味です。ほかの固有状態とのエネルギー差に対応する周波数と比べて、混合角θの変化が十分に遅い必要があります。急に光を切り替えると、原子は暗状態についていけず、別の固有状態へ移る成分が増えます。
一光子共鳴にも合っている単純な場合には、二つのラビ周波数を合成した大きさと、混合角θの変化率を比べることで、この条件を考えられます。共鳴からのずれを大きくした場合は固有状態間の隔たりも変わるため、同じ光の強さと時間をそのまま使えるとは限りません。
パルスを長くすれば常に良くなるわけでもありません。長寿命な状態間でも、位相が乱れたり、ほかの過程で占有が失われたりすることがあります。光の相対周波数や位相を保てる時間内で、暗状態を十分ゆっくり変える必要があります。
比較するときは、成功率と条件を組にする
STIRAPの利点は、成立条件を満たす範囲では、光の強さやパルス長の小さなずれに対して高い移行効率を保ちやすいことです。光をどれだけの時間当てるかを一つの値へ厳密に合わせる方式とは、調整の要点が異なります。ただし、任意に弱い光や短いパルスでも成立するという保証ではありません。
装置や実験結果を比較するなら、どの状態からどの状態へ移したか、二光子共鳴をどの程度保てたか、パルスの重なりと強さ、操作時間、状態2からの損失を併せて見る必要があります。最後に状態3で見つかった割合だけでは、途中で失われた原子を数えたか、残った原子だけで割合を出したかが分かりません。
EIT冷却でも暗状態や量子干渉を使いますが、主な目的は異なります。EIT冷却では光の吸収のしかたを整えて振動のエネルギーを減らします。ここで扱ったSTIRAPは、光の時間変化によって内部状態の占有を移す操作です。暗状態という共通の言葉だけで、冷却の速さと状態移行の効率を同じ指標として比べることはできません。
出典
資料確認日:2026年10月26日。以下の総説の第II節、特に三準位モデル、暗状態、段階的なパルス操作と断熱条件を参照しました。本稿は仕組みの説明であり、新しい装置の性能実証を報じるものではありません。
- N. V. Vitanov, A. A. Rangelov, B. W. Shore, K. Bergmann, Stimulated Raman adiabatic passage in physics, chemistry and beyond, arXiv:1605.00224v2(2016年11月14日)。掲載版は Reviews of Modern Physics 89, 015006(2017年)、doi:10.1103/RevModPhys.89.015006。第II節、式(5)〜(12)、図2。
