量子コンピューターで大きな問題を解くには、その前段階で、膨大な計算手順を普通のコンピューター上で組み立てる必要があります。アールト大学の研究チームが開発したPandoraは、この準備をデータベースに担わせる量子回路の書き換えエンジンです。2026年10月30日にnpj Quantum Informationで早期公開された論文では、数十億個の量子ゲートを含む回路の構築や分割を報告しています。
簡単にまとめると?
- 量子回路の各操作をデータベースの行として保存し、条件に合う部分を検索して書き換えます。
- 大量の回路を小分けに取り込み、複数の処理を並行して動かすことで、メモリーと検索時間の負担を抑えます。
- 成果は量子計算の準備を行うソフトウェアの性能です。約77億ゲートの回路を扱ったことと、量子コンピューターでその計算を実行したことは区別する必要があります。
計算を始める前に、計算手順が大きくなる
量子回路は、量子ビットに加える操作を並べたものです。一つ一つの操作を量子ゲートと呼びます。アルゴリズムを説明する段階では「足し算」や「掛け算」とひとまとめにできても、装置で使える基本操作へ分解すると、ゲートの数は大きく増えます。
たとえば、足し算を何度も使う計算では、同じ形の小回路が繰り返し現れます。その小回路を一度作って保存しておけば、毎回最初から分解し直す負担を減らせます。一方で、組み上がった巨大な回路から不要な操作を探すときは、目的の組み合わせを見つけるだけでも時間がかかります。
Pandoraが扱うのは、この保存、検索、置換、分割といった作業です。量子状態そのものをデータベースに保存するわけではありません。量子コンピューターへ渡す操作の記述を、古典コンピューター上で管理します。
量子ゲートを一行ずつ保存する
一般的な回路処理では、操作同士を結んだグラフなどをメモリー上に置きます。Pandoraも操作の前後関係を保ちますが、その情報を関係データベースの表へ移します。論文の実装はPostgreSQL 14を使い、ゲートの種類やパラメーター、同じ量子ビット上で前後にあるゲートへの参照を各行に記録します。
単に表の上から順番に操作する仕組みではありません。前後への参照をたどって回路を復元できるため、データベース内で行が並ぶ順序と、量子回路の操作順序を分けられます。複雑な操作を基本ゲートへ分解するときは、対応する行を複数の行に置き換え、周囲とのつながりも更新します。
書き換えの一例は、同じ向きに連続する二つのCNOTゲートを打ち消す操作です。CNOTは、片方の量子ビットの状態に応じて、もう片方を反転させるゲートです。同じ組に対して同じ操作を続けて二回行えば元へ戻るので、その部分を取り除けます。ただし、間に別の作用がある場合まで無条件に消せるわけではありません。ゲートの種類と接続関係を確認する検索が必要です。
並列化だけでなく、探す時間を減らす
研究チームは、書き換えにかかる時間を、候補を探す時間、実際に変更する時間、並列処理を調整する時間に分けています。変更できる場所が少ない回路では、ほとんどの時間を「消せる場所がないか」と探すことに費やしかねません。
データベースの索引は、条件に合う行へ到達するための手掛かりです。Pandoraはこの検索機構を使い、ゲートの種類などの条件から候補を絞ります。比較実験では、1万を超えるCNOTゲートを含む人工回路で、特定の書き換え対象が少ない場合に、QiskitやTKETより速い処理を示しました。この結果は、その回路と書き換え規則での比較です。あらゆる量子アルゴリズムで同じ差が出ることを示したものではありません。
複数の処理が同じゲートを同時に変更すると、接続情報が食い違うおそれがあります。そこで、対象となる行をロックし、一まとまりの変更をトランザクションとして実行します。検索、ロック、変更の設計をデータベースの機能と組み合わせることで、並列の書き換えを支えます。データベースを使うだけで任意の書き換えが正しくなるわけではなく、回路の等価性を保つ規則と、適切なロック範囲が必要です。

約77億ゲートは、どの段階の数字か
論文では、電子の相互作用を考えるフェルミ・ハバード模型の100×100の問題から、約77億個のClifford+Tゲートを含む回路を構築しました。Clifford+Tは、量子計算の基本操作を表すゲート集合の一つです。この数値は、回路を基本操作へ分解した後の規模を示しています。
別の50×50の例では約5億1400万ゲートを扱い、16コア使用時の保存速度として最大約27万ゲート毎秒を報告しています。一般のベンチマークには24コア、256GBメモリーの計算機を使い、大規模な構築や分割の実験にはLUMIスーパーコンピューターを使っています。個々の速度は、どの機械で、回路処理のどの工程を測ったものかと一緒に読む必要があります。
大きな回路を一度にメモリーへ載せず、一定数のゲートをまとめたバッチごとに変換、取り込み、取り出しを行うことも特徴です。処理済みのバッチに使ったメモリーを解放し、次のバッチへ進みます。必要な保存領域が消えるわけではありませんが、回路全体の大きさが、そのまま一度に保持するメモリー量になる状況を避けられます。
Shorのアルゴリズムについても、1024ビットの問題に対応する回路の構築を報告しています。ただし、論文で説明されるベンチマークには、算術部品をCNOT、Toffoli、CSWAP、一量子ビットのCliffordゲートへ分解して保存する工程が含まれます。フェルミ・ハバード模型のClifford+T回路とは分解先を分けて捉える必要があります。1024ビットの整数を量子コンピューターで実際に因数分解した報告ではありません。
速い工程だけで、全体の速さは決まらない
Pandoraは、保存した回路を小回路へ分け、外部へ順に渡すこともできます。小回路のゲート数や深さ、Tゲート数に上限を設ければ、計算資源の制約に合わせて区切れます。回路の深さは、同時に行える操作をまとめたときに必要な段数です。
分割と取り出しは高速でも、その手前にある高水準のアルゴリズムの分解や、データベースへの取り込みが時間を使います。論文でも、pyLIQTRによる分解と取り込みが重い工程として残りました。回路をすでに保存して再利用する場合と、最初から作る場合では、全体の待ち時間が変わります。
利用を検討するときは、回路の規模に加えて、書き換え対象がどれくらいあるか、同じ部品を再利用できるか、取り込みや取り出しが全体の何割を占めるかを比べると、方式の向き不向きが見えやすくなります。検索を短くしても、データを運ぶ時間や並列処理の調整時間が次の制約になり得ます。
回路が正しいかを調べる実験にも、範囲がある
書き換えの前後で計算内容が同じかを確認することも重要です。研究では、ランダムなCNOT回路をそのまま複製した場合と、そこからゲートを一つ取り除いた場合を比較しました。これは、書き換えに基づく等価性検査を高速化する可能性を調べる実験です。
任意の量子回路を完全に判定する一般的な検査器を完成させたわけではありません。回路の構造や使える書き換え規則によって難しさが変わり、今回の比較には特に処理しやすい構造が含まれます。単一の量子ビット数を境に、すべての検査が速くなるとは読めません。
Pandoraが示すのは、量子計算の準備にも、成熟したデータ管理技術を持ち込めるという方向です。量子ハードウェアの性能と、回路を用意する古典側の能力を分けて見ることで、大規模な量子計算へ向けて何が改善され、何が課題として残るのかを具体的に比べられます。
出典
- Moflic, I. and Paler, A. “Ultra-large-scale compilation and manipulation of quantum circuits with Pandora”, npj Quantum Information(2026年10月30日、Article in Press)。2026年9月29日受理の早期公開版。本文・Methods・図の説明に基づく。
- 同論文のSupplementary Information。回路の表現、分割、段階的な分解と保存、書き換え規則の説明を参照。上記論文と同じ研究の補足資料。
