量子情報を離れた場所へ運ぶには、光が便利です。一方、その情報を装置の中でしばらく保つ役には、電子のスピンが候補になります。両者を結ぶには、光の出方からスピンの状態を読み取り、そのスピンを個別に操作できる材料が必要です。
2026年10月28日付のNatureで、NVision Quantum Technologies、ウルム大学、ヘブライ大学の研究チームは、結晶に埋め込んだカルベン分子を一つずつ選び、スピンを操作して蛍光で読み取る実験を報告しました。動作温度は4.5 K、摂氏では約−269度です。分子を合成して量子素子をつくる方法で、光の安定性とスピンの制御を一つの分子上に組み合わせた研究です。
簡単にまとめると?
- 基底状態に電子スピンを持つカルベン分子を、形のよく合う結晶に埋め込み、光とマイクロ波で一分子ずつ制御しました。
- 4.5 Kで、マイクロ波の連続したパルス列を使うと、量子状態の位相の関係が保たれるコヒーレンス時間は約2.2ミリ秒になりました。何もせず同じ時間だけ情報を保てるという意味ではありません。
- 単一分子の光学応答とスピン制御を結ぶ実験であり、離れた分子同士の量子もつれや量子通信を実証した段階ではありません。
分子と、その周囲の結晶を一緒に設計する
今回使われたカルベンは、中心の炭素原子の周りに二つの不対電子を持つ分子です。二つの電子のスピンが結び付き、基底状態が「三重項」になります。三重項には区別できる三つのスピン状態があり、研究ではそのうちの二つの間をマイクロ波で制御します。スピンは電子の量子力学的な性質で、ここでは情報を載せる自由度として使われます。
分子だけを設計しても、周囲が揺らげば、光を吸収する周波数やスピンの状態が変わってしまいます。研究チームは、カルベンと形の似たケトン分子からできた結晶をホスト、つまり受け皿として選びました。結晶が分子の形を制約して光励起時の構造変化を小さくし、隣接する分子との電子的な重なりも抑える設計です。
反応性の高いカルベンを最初から大量に埋め込むのではなく、まず前駆体を結晶へ混ぜ、光を当てた場所でカルベンへ変えます。実験に使った結晶の前駆体濃度は25 ppmでした。光を当てる量や場所を調整すれば、結晶の組成を変えずに、活性化する分子をまばらにできます。この操作が、一つの分子を選んで調べる入口になります。
蛍光の明るさを、スピンの読み出しにつなぐ
スピンと光をつなぐ仕組みは、「どのスピン状態にいるかで、同じレーザーへの応答が変わる」ことです。特定のスピン状態から励起できる周波数の光を当てると、その状態の分子は蛍光を出します。別の状態にいる分子は同じ光では励起されにくいため、検出する光子数に差が生じます。
ただし、光を当て続けると状態はそのままではありません。分子は励起状態から別の経路を通り、レーザーに反応しにくいスピン状態へ移ります。この過程を使って初期状態をそろえ、レーザーを消した間にマイクロ波でスピンを動かし、再び短い光パルスで状態を読み取ります。光で検出する磁気共鳴は、ODMR(光検出磁気共鳴)と呼ばれます。
マイクロ波を当てる時間を変えると、読み出した蛍光が周期的に増減しました。これはラビ振動で、二つのスピン状態の間を、制御した量子力学的な重ね合わせとして動かしている根拠になります。単に明るい分子を撮影するところから、一つの分子のスピンを操作して光で検出するところへ進んだわけです。

2.2ミリ秒と21ミリ秒は、何が違うのか
量子素子の時間を比べるときは、何を、どの操作の下で保っているかが大切です。今回の4.5 Kでの測定では、ラムゼー測定による位相の減衰時間が約5.3マイクロ秒、ハーンエコーで測るコヒーレンス時間が約12.2マイクロ秒でした。
そこへXY8というマイクロ波パルス列を繰り返すと、コヒーレンス時間は約2.2ミリ秒へ延びました。XY8は、周囲の影響によってたまる位相のずれを抑える「動的デカップリング」の一種です。この実験では反転パルスの間隔を1マイクロ秒に設定しています。2.2ミリ秒は、この制御を続けながら得られた値として読む必要があります。
一方、スピン緩和時間T1は約21ミリ秒でした。こちらはスピン状態の占有の偏りが平衡へ戻る時間を表します。重ね合わせの位相を保てる時間とは違うため、「量子情報を21ミリ秒保存できる」とそのまま言い換えることはできません。素子を比較するなら、温度に加えて、T1、コヒーレンス時間、パルス列の条件をそろえて見ることが必要です。
読み出しの数字にも同じ注意が要ります。論文にある最大約95%の蛍光コントラストは、スピン状態によって平均的な明るさがどれだけ違うかを表します。1回の測定で状態を95%正しく判定できたという数字ではありません。例えばラビ振動の読み出しでは、通常約200万回の繰り返しから光子数を積算しています。
一分子であることと、光が安定していること
明るい点が見えるだけでは、その中に分子が一つしかないとは限りません。研究では二つの検出器で光子の到着時刻を比べ、同時に二つの光子を検出しにくい「アンチバンチング」を確認しました。ゼロ遅延での二次相関g(2)(0)は約0.14で、単一発光体を判断する目安の0.5を下回っています。
さらに、一つの分子が光を吸収する共鳴の幅は38 MHzでした。別々の分子から出る光を干渉させる用途では、光の周波数が揺れにくいことが重要になります。二つの分子の共鳴中心を1時間以上追うと、変動の標準偏差は約2.4〜2.6 MHzでした。
ただし、共鳴の幅38 MHzは、励起状態の寿命から求まる限界の約6.6 MHzより広い値です。長い時間で中心周波数が安定していることと、瞬間的な光の線幅が寿命限界まで狭いことは別の性質です。今回も振動との結合による位相の乱れが残り、光の品質をさらに改善する余地があります。
量子ネットワークへ進むために残る課題
この成果の特徴は、合成で構造をそろえられる分子を使い、単一スピンの操作と安定した光学応答を同じ場所で確かめたことです。分子やホストを変えて性質を調整できる点は、材料設計としての強みになります。
一方、今回の実験で離れた二つの分子を量子もつれにしたわけではありません。量子ネットワークの節点にするには、使える光子を多く集め、別々の素子から出た光子を十分に区別できなくし、スピンと光子の量子もつれを確かめるなど、次の段階が必要です。冷却設備のある4.5 Kの実験条件も残ります。
論文が示す光集積回路との接続や通信波長への変換は、今後の発展方向です。評価するときは、分子を一つずつ選べたか、スピンをどの条件で制御できたか、光の線幅と安定性がどう両立したかを先に見ると、今回できたことと、これからの通信実証との距離が分かります。
